金融工学における3大成果の1つであるブラックショールズモデルを考案した一人である。現在でも使用されておりその有用性は健在である。ノーベル経済学賞を受賞していないものの、存命であれば受賞していたと言われている。
ブラックの人生
1938年、アメリカのワシントンD.C.で生まれた。ハーバード大学に進学し物理学を学び、一時期、Bolt Beranek and Newman Inc.でコンサルタントとして働いた。その後、再びハーバード大学に戻り応用数学で博士号を取得した。
卒業後、アーサー・D・リトルでコンサルタントとして就職した。そこで、ジャック・トレイナーに出会った。
1968年(30歳)、MITの教員となったマイロン・ショールズと出会い、ともに研究を始めた。MITとアーサー・D・リトルはどちらもボストンにあったため近い距離にあった。
1969年、独立して自分のコンサルタント会社を設立した。
1970年、セミナーでブラックショールズモデルの内容を公表し、その後、MITの教員であったロバート・マートンとともに研究をするようになった。
1971年、シカゴ大学の教授になり、ブラックショールズモデルに関する論文を様々な雑誌に申し込んだものの断られ続けた。ようやく、1973年にシカゴ大学が発行している学術雑誌であるJournal of Political Economyで発表することができた。
(Journal of Political Economyにも一度断られたもののマートン・ミラーとユージン・ファーマの目に留まり、アドバイスを受けた結果掲載することができた。)
時を同じくして、1973年、シカゴ・オプション取引所で株式オプション(コールオプション)が取引されるようになったが、市場のオプション価格はモデルに整合的な水準に急速に修正されていった。
1975年からMITで研究を行い、1983年にはゴールドマン・サックスのクオンツとして働くことになる。
そこで、エマニュエル・ダーマン、ビル・トイとともにブラック・ダーマン・トイモデルを開発、ピョートル・カラシンスキーとともにブラック・カラシンスキーモデルを開発した。
1995年、病気により57歳で亡くなった。
1997年、ブラックショールズモデル等の功績により、ショールズとマートンはノーベル経済学賞を受領した。
ブラックは他の金融工学者と異なり、コンサルタントやクオンツという実務でのキャリアが長いことが特徴である。
ブラックショールズモデル
原資産価格が以下の幾何ブラウン運動(対数正規分布)に従うとき
$$\frac{dS}{S} = μ dt + σ dW_t$$
\(S\):原資産価格
\(μ \) :原資産価格の期待リターン(一定)
\(σ \) :原資産価格のリターンのボラティリティ(一定)
\(W_t \) :ブラウン運動
コールオプション価格は以下の式で表され、これをブラックショールズモデルと言う。
$$C = S N (d_1) – K e^{-rT} N(d_2)$$$$d_1 = \frac{\ln\frac{S}{K}+(r+\frac{1}{2}σ^2)T}{σ\sqrt{T}}$$$$d_2 = d_1 – σ\sqrt{T}$$
\(C\) :コールオプション価格
\(K\) :権利行使価格
\(N()\) :正規累積分布関数(CDF)
\(r\) :無リスク資産の期待リターン
\(T\) :権利行使日(=原資産受渡日と仮定)
ブラックショールズモデルの特徴
ブラックショールズモデルの新規性は以下である。
インプットとして原資産価格の期待リターンを使用せずに、無リスク金利の期待リターンを使用した
それまでのモデルでは観測できない原資産価格の期待リターンをインプットとしていた。しかし、何らかの仮定をおいて推定する必要があり、推定方法の違いがプライシングに大きく影響していた。
しかし、無リスク金利のリターンは例えばかつて無リスクと考えられていたLIBORなどから求めることができ、ある程度モデルの使用者に依存しない価格を求めることができる。
ただし、ボラティリティの観測不可能性は残り続けている。
現在では、オプション取引をする際に(シフテッド)ブラックショールズモデルのボラティリティをクオートするというような用途で用いられている。
ただし、派生的なモデルのベースとなっているのはブラックショールズモデルなのでエッセンスとしては現在も多くの場面で使用されている。
参考文献
『数理ファイナンスの歴史』 櫻井 豊 (著)
『ファイナンス理論全史』田渕 直也 (著)
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